星の遺言(命日のホロスコープ)を届けたいと思った理由
みぶきえみです。
ホロスコープは、私たちの人生を知ってる。
生まれた時のホロスコープが、一生に影響を与えるなら・・・
子供が生まれた時のホロスコープが、人生の大きな変化につながるのなら・・・
きっと、大切な人が最後に残した、旅立ちの日のホロスコープに、意味がないわけはない。
そんな気持ちから、星の遺言をお届けしたいと思った。
故人がそう言っているのかどうかはわからない。
けど、星の表示のエネルギーは、確かにそこにある。
そして、亡くなった方への想い・・・後悔や感謝を語る場にしてほしいと思う。
目次
- 1 星の遺言を届けたいと思った理由①~母の死を意識し始めた時
- 2 星の遺言を届けたいと思った理由②~最後の言葉になったのは、「良いお年を!」
- 3 星の遺言を届けたいと思った理由③~穏やかな死のイメージと、命の決断
- 4 星の遺言を届けたいと思った理由④~どんな旅立ちを準備すればいいのか?
- 5 星の遺言を届けたいと思った理由⑤~明るい陽射しと暗くなったばかりの空
- 6 星の遺言を届けたいと思った理由⑥~最期の時、ありがとう。
- 7 星の遺言を届けたいと思った理由⑦~母が残したものを探す時間
- 8 星の遺言~母の死をきっかけに、芽生えた想い
- 9 弟の妻の死を経験して改めて感じたグリーフケアの必要性
- 10 死生観〜さらなる探求
星の遺言を届けたいと思った理由①~母の死を意識し始めた時
母の死を意識し始めたのは、2018年の年末。
もちろん、その時は、普段と変わりなく、元気だったけど、こんな言葉が、とても気になった。
「もう1回、Yに会えるかねー。」 私は、弟と2人兄弟だけど、兄弟同然に育ったいとこがいる。
Yは、そのいとこだ。 私も弟も近くに住んでるけど、Yは愛知在住で、ここ数年は、広島に帰って来てなかった。
なんだか、嫌な予感もして、Yに母の言葉を伝えたら、Yは、年末年始の休みに、広島に帰って来た。
母は、久しぶりにYに会えて喜んでたけど、年が明けても、普段通りで、わたしの嫌な感じも薄れていった。
夏頃になり、時々、食欲がないということがあった。
一緒にご飯を食べると、普通に食べるけど、少し痩せてきた。
もしかしたら、ゆっくりと着地に向かっているのかもしれないと思った。
数年前から、平穏死について、学んでいたことので、食べられなくなったら、ゆっくりと着地に向かうのを、サポートしようと思ってた。
平穏死とは、「過剰な延命処置をせず自然な経過に任せた先にある死」と定義される。
着地が近づくと、必要な水分や栄養の量はどんどん減っていく。
人は死につつあるから食べない、食べるのをやめたから死ぬんじゃない。
入れない方がむしろ穏やかに逝ける。
日本では、まだ、手段があるのに、何もしないと「見殺しにした。」みたいに言われる。
だけど、年齢を重ねて、着地に向かう時、できる限りのことをすることが、いいとは思えない。
看護師時代の経験からも、最後は枯れていく方が、亡くなる時が楽そうだし、ご遺体が美しいと思ってた。
母自身も、延命を望んでいなかったし、ここ数年は、事あるごとに、「何かあった時は、この鞄に全部入っとるし、 ちゃんと書いとるけー。」と言ってた。
この「書いとる」という言葉が、後に、私を星の遺言を聴くことに、繋がっていく。
ゆっくりと穏やかにその時を迎える覚悟は、できていたつもりだった。
でも、そうプラン通りにはいかなかった。
星の遺言を届けたいと思った理由②~最後の言葉になったのは、「良いお年を!」
母と最後に会ったのは、12月30日。
恒例の年末の祈願も、ここ2年くらいは、私だけで行ってて、そのお札を持って、母の家に行った。
いつも通り、昼食の準備がしてあって、他愛もない話をしながら、時間を過ごした。
足のサイズが小さくて、なかなかいい靴に出会えない母。
先日、私が買った靴が、足にフィットして、軽くて、とても歩きやすいと、喜んでた。
そして、帰る時「良いお年を!」と送ってくれた。
それが、最後の言葉になった。
お正月は、弟たちが行くので、10年くらいは、年末に会った後は、1月10日くらいに、行くような感じだった。
今年は私の次男が、帰って来てて、3日に、母のところに行く予定にしていた。
朝、何度電話をしても、出ないと言うので、嫌な予感がして、私も一緒に行くことにした。
母は、綺麗好きで、掃除の時には、電話も拭くような人。
今までも、その時に、音量を最小に下げてて、電話が聞こえなかったことが、何度もあった。
だけど、嫌な予感というものは、当たる。
母の家に駆けつけると、キッチンで、倒れていた。
今振り返ると、料理が得意な、母らしい場所で倒れたんだなって思う。
それから、すぐに救急車を呼んで、病院へ。
倒れていた時は、呼吸も脈もあって、意識レベルは30くらいか、それ以上。
右手は少し動くけど、左手は全く動かない。
かなり厳しい状態なんじゃないかと思えた。
不思議なことがひとつ。
母の家に行く時に、慌ててたから、鍵を忘れた。
でも、玄関の鍵は、開いてたのだ。
鍵をかけ忘れることなんて、なかった母。
鍵が開いてたから、早く対応できたんだけど、後から考えると、すごく不思議なことだった。
私の次男は、小さい時から体が弱く、よく入院していた。
なので、保育園を休むことも多く、母に面倒を見てもらってた。
母と次男は気が合うようだったし、18歳から遠方で一人暮らしの次男のことを、いつも、気にかけていた。
その次男が、今年はたまたま帰って来てて、3日に母のところに行くことにしたから、倒れてる母を発見できた。
母も、大好きだった、次男に見つけてもらって、喜んでると思う。
救急車が来て、病院に到着した後は、決断の連続だった。
星の遺言を届けたいと思った理由③~穏やかな死のイメージと、命の決断
救急車で病院に運ばれた母。 厳しい状況だというのは、予想ができた。
検査待ちの長い時間。
結果は、脳動脈破裂による、くも膜下出血、脳内出血。
見せてもらった画像からも、広い範囲の出血であることが分かった。
手術をするかどうか。 最初の決断を、家族で話し合うことになった。
手術をしたとしても、元のように歩けるようにはならないし、意識が戻る可能性も少ない。
そして、手術中、手術後もリスクが高く、最低でも2週間程度は、ICU管理になるだろう。
母が生前、最も嫌った、管につながれることだ。
だけど、もし意識が回復する可能性があるなら、手術の選択の方がいいのか?
私の中でも、迷いが生じていた。
その中で、次男が言った一言が、心に刺さった。
「何もせんといて。」
私には、母の声に聞こえたのだ。
混乱の状況下での、幻聴的なものかもしれない。
でも、はっきりと聞こえた。
そのことは、弟や息子たちには言わなかったけど、結局手術はせず、個室で家族と過ごすという選択をした。
それから、すべての仕事をキャンセルし、毎日母のもとに通う日が始まった。
星の遺言を届けたいと思った理由④~どんな旅立ちを準備すればいいのか?
母は、自分で呼吸ができていたので、脳幹の機能は、残っていると考えられ、いわゆる、植物状態のような感じだった。
意識はないものの、生命を維持する機能があるため、次の決断は、経管栄養をするかどうかだった。
経管栄養は、鼻から胃まで管を通して、そこから栄養剤を入れる方法だ。
意識がなくても、経口摂取ができなくても、栄養を取ることができる。
その方法が、有効な場合もあるだろう。
でも、母の状態を考えると、経管栄養をする意味を、感じられなかった。
人は、死の時期を決めて生まれてくる。 ・・・
とはいっても、経管栄養をしないということは、肉体的な死期を早めることには違いなかった。
答えは出ている。
だけど、こんなにも気持ちが揺れるとは、思ってもいなかった。
入院当初、維持輸液に加え、降圧剤、抗生剤が投与されていたが、降圧剤が減り、抗生剤が減り、維持輸液だけになっていた。
まだ母が元気だったころ、最期は点滴の1本もない状態で、美しく凛として、旅立ってもらいたいと思っていた。
そして、母もそういう旅立ちを望んでいた。
医師に、経管栄養はしないことを告げると同時に、最期をどのように見送りたいかの話をして、点滴もやめてもらった。
「口から食べられなくなったら、枯れて亡くなっていく。」
そこに向かっての、選択だった。
医師は、母の状況が厳しいのもあり、私の意向を聞いてくれて、その日、点滴もマーゲンチューブも、抜くことが決まった。
その後、酸素濃度も図れなくなり、酸素も止めた。
いよいよ、旅立ちを見送るときは、近づいていた。
星の遺言を届けたいと思った理由⑤~明るい陽射しと暗くなったばかりの空
いよいよ、母の旅立ちが近づいた1月10日。
その日は快晴で、太陽の光が、とっても美しかった。
この日の午後、母と一緒にいられるのは、あと12時間だろうと感じていた。
看護師の頃から、終末期の人の、「なんか変」な感じは、よく当たったし、データよりも、確かな時もあった。
すべての人の死期がわかるわけじゃなかったけど、この人は、自分の勤務で看取るというカンは、とてもよく当たった。
だから、ふとそう思ってしまった自分の思いを、複雑な思いで感じていた。
夕方、病院の近くの公園で見た、昇り始めたばかりの月。
この月を見た後から、病室を離れることはなかった。
月蝕の日に旅立つというカンが、現実味を帯びてきた。
とはいっても、維持輸液も切ったばかりで、脈拍は少し増えたけど、呼吸は比較的安定していた。
尿も出ている。
夕方面会に来た弟も、ご飯食べて帰ろうって誘ってくれたけど、今夜がその時だと思うからと、病院に泊まることにした。
弟夫婦は、きっと、そんなにすぐに、旅立ってしまうとは思っていなかっただろう。
星の遺言を届けたいと思った理由⑥~最期の時、ありがとう。
夕方から夜にかけて、さらに脈が増え始めた。
最期の頑張り・・・。 夜になっても、状況は変わらなかったので、私は少し仮眠をとることにした。
夜中0時か1時頃、ずっと出てなかった便が多量に出た。
最期に向けての準備が始まったのかなと感じた。
自然死の場合は、身体はどうすれば、楽に逝けるのかを知ってる。
体は楽に逝くために、体内の水分を、できるだけ減らそうとする。
そんなとき、無理に水分や栄養を入れると、体に負担をかけ、むくみが出たり腹水がたまったり、痰も多くなる。
母の場合は、自然死とは違うけど、最期はできるだけ自然死に近いようにと、思っていた。
大量の便が出た後、呼吸状態が変わり、明かな下顎呼吸になった。
ここで、弟たちに連絡した。
2:37 最初の長い無呼吸があり、その後、2回呼吸をして止まった。
脈拍は、それに従うように下がっていき、2:44に停止、対光反射がないことを確認して、2:45が、母の旅立ちの時間だった。
声をかけながら、体を綺麗に整え始めた頃、医師がやって来て、死亡確認となった。
医師による死亡確認が必要だっていうことが、すっかり頭からとんでて、モニターまで外してしまっていたので、再装着なんていう、間抜けなことになった。
この時はまだ、夢の中にでもいるような感じと、部屋を片付けて、いろいろと連絡してって考えてる感じが、同居しているような感じだった。
水星と海王星が、縦横の軸のように、交わってるような、不思議感じだった。
母とは、確執もあったし喧嘩もした。
だけど、ここ数年は、感謝の気持ちもだんだんと大きくなっていて、それは、母からの最期のギフトだったのかもしれないなんて思っていた。
だけど、まだ続きがあったのだ。
星の遺言を届けたいと思った理由⑦~母が残したものを探す時間
母が亡くなってからは、バタバタと忙しかった。
お通夜やお葬式を終えても、いろんな手続きが待っていた。
母は、「もし、何かあったら、必要なものはまとめとるし、 ちゃんと書いとる。」って、常日頃から言ってた。
私自身、シングルマザーで息子ふたりを育ててきたので、自分にもしものことがあった時にって、毎年手紙を書いてた。
だから、母の想いが手紙になって、残ってるんじゃないかって思ってた。
だけど、家の中を探しても探しても、何も出てこない。
確かに必要なもの・・・保険証とか、通帳とか、印鑑とかは、まとめられてたし、暗証番号や、必要な連絡先も書いてあった。
でも、母の想いを知ることができるものは、何もなかったのだ。
いろんなものが整理されていて、まるで旅立ちを知っていたかのような感じだった。
母の想いを受け取りたいっていう衝動は、旅立った時のホロスコープを見るという行動に駆り立てた。
蟹座の月蝕に乗せて、伝えたかった想いは、何だったんだろう?
そして、ホロスコープが語りかけてくれることに、耳を傾けることで、母の想いを感じたいと思っていた。
母の旅立ちのホロスコープは、こんなに雄弁に語っていたのだ。
母が占星家の私に残してくれたのは、星からのメッセージだったのだ。
星の遺言~母の死をきっかけに、芽生えた想い
母は、高齢だったけど、日常生活も自立していて、元気だった。
だから、こんなに早く別れが来るとは、思ってもいなかった。
そして、母の想いをホロスコープの声から、探した1ヶ月。
もしかしたら、大切な人を亡くした人の多くが、星からのメッセージ・・・星の遺言を、必要としてるんじゃないかって思えてきた。
生まれた時のホロスコープが、一生に影響を与えるなら・・・
子供が生まれた時のホロスコープが、人生の大きな変化につながるのなら・・・
きっと、大切な人が最後に残した、旅立ちの日のホロスコープに、意味がないわけはない。
そう思うようになっていった。
そして、山羊座時代から、風の時代に変わろうとする今、その想いが、強くなってきた。
私にとっては、天王星が太陽と重なり、土星・冥王星が月と重なる、大きな変化の時期でもある。
別離や死を経験したことで、人生は変わる。
変化ではなく、変容なんだと思える。
占星家としての死への向き合い方は、星の遺言を届けること。
もし、あなたの大切な人が、旅立ってしまったなら、きっとそこには、たくさんのギフトとなるメッセージが、溢れているはずだ。
弟の妻の死を経験して改めて感じたグリーフケアの必要性
星の遺言を届けたいと思った理由①でも触れた、弟のY。
私にとっては、本当の弟と同じだ。
彼は、決して幸せな幼少期を過ごしたとはいえず、家族との縁も薄かった。
私たち家族と、兄弟同然に育ったことからも、推測できるだろう。
その彼が、結婚し家庭を持ち父親となった。
彼にとっては、初めての「家族」という絆だっただろう。
妻とはとても仲が良く、幸せだったことは疑いようがない。
けど、妻を亡くすことで、彼の人生は一変した。
もちろん、長い闘病生活を過ごした彼女は大変だっただろうし、ご兄弟やお母さんの気持ちは、計り知れない。
けど、私が最も心配だったのは、残されたY。
死別の悲しみや苦しみは、話すこと、語ることが効果があるといわれる一方、男性はそれが苦手だ。
私の小さな力では、彼を癒すことはできない。
けど、ほんの1mmでも、何かできることはないのかと、思わずにはいられなかった。
そして、看護師時代に学んだ、グリーフケアをもう一度学び直したいという気持ちになった。
死生観〜さらなる探求
死別を経験すると、人生について、それまでとは違った見方をするようになる。
あの人の人生は、どんなものだったのだろうか?
大切な人であればあるほど、その生に意味を見出したくなる。
そして、自分の人生についても、改めて考えることになる。
時には、今までの価値観が崩壊することで、見えてくるものもある。
それが、自身の死生観を作ることになる。
失ってすぐには、そんなことは考えられない。
後悔や罪悪感、そして、さまざまな体調の異変を抱えることになるかもしれない。
しかし、その感情や感覚は、今までの人生の中で、抑圧してきたこと、避けていたことかもしれない。
大切な人は、死という大きな出来事を通して、そのことを伝えてくれる。
もちろん、それはヒントで答えではない。
自分なりの答えを見つけていくことも含めて、どう生きるのかが問われる。
私は、母の死を通して、母の人生がどれほどの苦難や絶望を抱えていたのか、どれほどの喜びを感じていたのかに、思いを馳せた。
それは、自分の価値観が、どれほど母親の影響を受けているのかを、知ることにもつながった。
そして、自身の死を恐れる感情が湧いてきた。
すると、今まで抑圧していた、過去の喪失体験がフラッシュバックのように、芋づる式に襲ってきた。
そこから、死生観を探求することになった。
看護師として若い頃に抱いていた死生観が、おままごとに見えるような感じさえしていた。
けど今は、いろんな知識や沢山の人の体験から、もっとシンプルでいいのかなとも思う。
子供の頃、聞かされたように「人は死んだらお星様になって、いつも見守ってくれてるのよ。」
死ぬことは、お星様になって、広大な宇宙で輝いている。
心からそう思えたら・・・