星の遺言(命日のホロスコープ)を届けたいと思った理由

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ホロスコープは、私たちの人生を知ってる。

生まれた時のホロスコープが、一生に影響を与えるなら・・・

子供が生まれた時のホロスコープが、人生の大きな変化につながるのなら・・・

きっと、大切な人が最後に残した、旅立ちの日のホロスコープに、意味がないわけはない。

そんな気持ちから、星の遺言をお届けしたいと思った。

故人がそう言っているのかどうかはわからない。

けど、星の表示のエネルギーは、確かにそこにある。

そして、亡くなった方への想い・・・後悔や感謝を語る場にしてほしいと思う。

星の遺言~亡くなった人からのメッセージ

星の遺言を届けたいと思った理由①~母の死を意識し始めた時

母の死を意識し始めたのは、2018年の年末。

もちろん、その時は、普段と変わりなく、元気だったけど、こんな言葉が、とても気になった。

「もう1回、Yに会えるかねー。」 私は、弟と2人兄弟だけど、兄弟同然に育ったいとこがいる。

Yは、そのいとこだ。 私も弟も近くに住んでるけど、Yは愛知在住で、ここ数年は、広島に帰って来てなかった。

なんだか、嫌な予感もして、Yに母の言葉を伝えたら、Yは、年末年始の休みに、広島に帰って来た。

母は、久しぶりにYに会えて喜んでたけど、年が明けても、普段通りで、わたしの嫌な感じも薄れていった。

夏頃になり、時々、食欲がないということがあった。

一緒にご飯を食べると、普通に食べるけど、少し痩せてきた。

もしかしたら、ゆっくりと着地に向かっているのかもしれないと思った。

数年前から、平穏死について、学んでいたことので、食べられなくなったら、ゆっくりと着地に向かうのを、サポートしようと思ってた。

平穏死とは、「過剰な延命処置をせず自然な経過に任せた先にある死」と定義される。

着地が近づくと、必要な水分や栄養の量はどんどん減っていく。

人は死につつあるから食べない、食べるのをやめたから死ぬんじゃない。

入れない方がむしろ穏やかに逝ける。

日本では、まだ、手段があるのに、何もしないと「見殺しにした。」みたいに言われる。

だけど、年齢を重ねて、着地に向かう時、できる限りのことをすることが、いいとは思えない。

看護師時代の経験からも、最後は枯れていく方が、亡くなる時が楽そうだし、ご遺体が美しいと思ってた。

母自身も、延命を望んでいなかったし、ここ数年は、事あるごとに、「何かあった時は、この鞄に全部入っとるし、 ちゃんと書いとるけー。」と言ってた。

この「書いとる」という言葉が、後に、私を星の遺言を聴くことに、繋がっていく。

ゆっくりと穏やかにその時を迎える覚悟は、できていたつもりだった。

でも、そうプラン通りにはいかなかった。

 

星の遺言を届けたいと思った理由②~最後の言葉になったのは、「良いお年を!」

 母と最後に会ったのは、12月30日。

恒例の年末の祈願も、ここ2年くらいは、私だけで行ってて、そのお札を持って、母の家に行った。

いつも通り、昼食の準備がしてあって、他愛もない話をしながら、時間を過ごした。

足のサイズが小さくて、なかなかいい靴に出会えない母。

先日、私が買った靴が、足にフィットして、軽くて、とても歩きやすいと、喜んでた。

そして、帰る時「良いお年を!」と送ってくれた。

それが、最後の言葉になった。

お正月は、弟たちが行くので、10年くらいは、年末に会った後は、1月10日くらいに、行くような感じだった。

今年は私の次男が、帰って来てて、3日に、母のところに行く予定にしていた。

朝、何度電話をしても、出ないと言うので、嫌な予感がして、私も一緒に行くことにした。

母は、綺麗好きで、掃除の時には、電話も拭くような人。

今までも、その時に、音量を最小に下げてて、電話が聞こえなかったことが、何度もあった。

だけど、嫌な予感というものは、当たる。

母の家に駆けつけると、キッチンで、倒れていた。

今振り返ると、料理が得意な、母らしい場所で倒れたんだなって思う。

それから、すぐに救急車を呼んで、病院へ。

倒れていた時は、呼吸も脈もあって、意識レベルは30くらいか、それ以上。

右手は少し動くけど、左手は全く動かない。

かなり厳しい状態なんじゃないかと思えた。

不思議なことがひとつ。

母の家に行く時に、慌ててたから、鍵を忘れた。

でも、玄関の鍵は、開いてたのだ。

鍵をかけ忘れることなんて、なかった母。

鍵が開いてたから、早く対応できたんだけど、後から考えると、すごく不思議なことだった。

私の次男は、小さい時から体が弱く、よく入院していた。

なので、保育園を休むことも多く、母に面倒を見てもらってた。

母と次男は気が合うようだったし、18歳から遠方で一人暮らしの次男のことを、いつも、気にかけていた。

その次男が、今年はたまたま帰って来てて、3日に母のところに行くことにしたから、倒れてる母を発見できた。

母も、大好きだった、次男に見つけてもらって、喜んでると思う。

救急車が来て、病院に到着した後は、決断の連続だった。

 

星の遺言を届けたいと思った理由③~穏やかな死のイメージと、命の決断

救急車で病院に運ばれた母。 厳しい状況だというのは、予想ができた。

検査待ちの長い時間。

結果は、脳動脈破裂による、くも膜下出血、脳内出血。

見せてもらった画像からも、広い範囲の出血であることが分かった。

手術をするかどうか。 最初の決断を、家族で話し合うことになった。

手術をしたとしても、元のように歩けるようにはならないし、意識が戻る可能性も少ない。

そして、手術中、手術後もリスクが高く、最低でも2週間程度は、ICU管理になるだろう。

母が生前、最も嫌った、管につながれることだ。

だけど、もし意識が回復する可能性があるなら、手術の選択の方がいいのか?

私の中でも、迷いが生じていた。

その中で、次男が言った一言が、心に刺さった。

「何もせんといて。」

私には、母の声に聞こえたのだ。

混乱の状況下での、幻聴的なものかもしれない。

でも、はっきりと聞こえた。

そのことは、弟や息子たちには言わなかったけど、結局手術はせず、個室で家族と過ごすという選択をした。

それから、すべての仕事をキャンセルし、毎日母のもとに通う日が始まった。

 

星の遺言を届けたいと思った理由④~どんな旅立ちを準備すればいいのか?

母は、自分で呼吸ができていたので、脳幹の機能は、残っていると考えられ、いわゆる、植物状態のような感じだった。

意識はないものの、生命を維持する機能があるため、次の決断は、経管栄養をするかどうかだった。

経管栄養は、鼻から胃まで管を通して、そこから栄養剤を入れる方法だ。

意識がなくても、経口摂取ができなくても、栄養を取ることができる。

その方法が、有効な場合もあるだろう。

でも、母の状態を考えると、経管栄養をする意味を、感じられなかった。

人は、死の時期を決めて生まれてくる。 ・・・

とはいっても、経管栄養をしないということは、肉体的な死期を早めることには違いなかった。

答えは出ている。

だけど、こんなにも気持ちが揺れるとは、思ってもいなかった。

入院当初、維持輸液に加え、降圧剤、抗生剤が投与されていたが、降圧剤が減り、抗生剤が減り、維持輸液だけになっていた。

まだ母が元気だったころ、最期は点滴の1本もない状態で、美しく凛として、旅立ってもらいたいと思っていた。

そして、母もそういう旅立ちを望んでいた。

医師に、経管栄養はしないことを告げると同時に、最期をどのように見送りたいかの話をして、点滴もやめてもらった。

「口から食べられなくなったら、枯れて亡くなっていく。」

そこに向かっての、選択だった。

医師は、母の状況が厳しいのもあり、私の意向を聞いてくれて、その日、点滴もマーゲンチューブも、抜くことが決まった。

その後、酸素濃度も図れなくなり、酸素も止めた。

いよいよ、旅立ちを見送るときは、近づいていた。

 

星の遺言を届けたいと思った理由⑤~明るい陽射しと暗くなったばかりの空

いよいよ、母の旅立ちが近づいた1月10日。

その日は快晴で、太陽の光が、とっても美しかった。

この日の午後、母と一緒にいられるのは、あと12時間だろうと感じていた。

看護師の頃から、終末期の人の、「なんか変」な感じは、よく当たったし、データよりも、確かな時もあった。

すべての人の死期がわかるわけじゃなかったけど、この人は、自分の勤務で看取るというカンは、とてもよく当たった。

だから、ふとそう思ってしまった自分の思いを、複雑な思いで感じていた。

夕方、病院の近くの公園で見た、昇り始めたばかりの月。

この月を見た後から、病室を離れることはなかった。

月蝕の日に旅立つというカンが、現実味を帯びてきた。

とはいっても、維持輸液も切ったばかりで、脈拍は少し増えたけど、呼吸は比較的安定していた。

尿も出ている。

夕方面会に来た弟も、ご飯食べて帰ろうって誘ってくれたけど、今夜がその時だと思うからと、病院に泊まることにした。

弟夫婦は、きっと、そんなにすぐに、旅立ってしまうとは思っていなかっただろう。

 

星の遺言を届けたいと思った理由⑥~最期の時、ありがとう。

 夕方から夜にかけて、さらに脈が増え始めた。

最期の頑張り・・・。 夜になっても、状況は変わらなかったので、私は少し仮眠をとることにした。

夜中0時か1時頃、ずっと出てなかった便が多量に出た。

最期に向けての準備が始まったのかなと感じた。

自然死の場合は、身体はどうすれば、楽に逝けるのかを知ってる。

体は楽に逝くために、体内の水分を、できるだけ減らそうとする。

そんなとき、無理に水分や栄養を入れると、体に負担をかけ、むくみが出たり腹水がたまったり、痰も多くなる。

母の場合は、自然死とは違うけど、最期はできるだけ自然死に近いようにと、思っていた。

大量の便が出た後、呼吸状態が変わり、明かな下顎呼吸になった。

ここで、弟たちに連絡した。

2:37 最初の長い無呼吸があり、その後、2回呼吸をして止まった。

脈拍は、それに従うように下がっていき、2:44に停止、対光反射がないことを確認して、2:45が、母の旅立ちの時間だった。

声をかけながら、体を綺麗に整え始めた頃、医師がやって来て、死亡確認となった。

医師による死亡確認が必要だっていうことが、すっかり頭からとんでて、モニターまで外してしまっていたので、再装着なんていう、間抜けなことになった。

この時はまだ、夢の中にでもいるような感じと、部屋を片付けて、いろいろと連絡してって考えてる感じが、同居しているような感じだった。

水星と海王星が、縦横の軸のように、交わってるような、不思議感じだった。

母とは、確執もあったし喧嘩もした。

だけど、ここ数年は、感謝の気持ちもだんだんと大きくなっていて、それは、母からの最期のギフトだったのかもしれないなんて思っていた。

だけど、まだ続きがあったのだ。

 

星の遺言を届けたいと思った理由⑦~母が残したものを探す時間

 母が亡くなってからは、バタバタと忙しかった。

お通夜やお葬式を終えても、いろんな手続きが待っていた。

母は、「もし、何かあったら、必要なものはまとめとるし、 ちゃんと書いとる。」って、常日頃から言ってた。

私自身、シングルマザーで息子ふたりを育ててきたので、自分にもしものことがあった時にって、毎年手紙を書いてた。

だから、母の想いが手紙になって、残ってるんじゃないかって思ってた。

だけど、家の中を探しても探しても、何も出てこない。

確かに必要なもの・・・保険証とか、通帳とか、印鑑とかは、まとめられてたし、暗証番号や、必要な連絡先も書いてあった。

でも、母の想いを知ることができるものは、何もなかったのだ。

いろんなものが整理されていて、まるで旅立ちを知っていたかのような感じだった。

母の想いを受け取りたいっていう衝動は、旅立った時のホロスコープを見るという行動に駆り立てた。

蟹座の月蝕に乗せて、伝えたかった想いは、何だったんだろう?

そして、ホロスコープが語りかけてくれることに、耳を傾けることで、母の想いを感じたいと思っていた。

母の旅立ちのホロスコープは、こんなに雄弁に語っていたのだ。

母が占星家の私に残してくれたのは、星からのメッセージだったのだ。

 

星の遺言~母の死をきっかけに、芽生えた想い

母は、高齢だったけど、日常生活も自立していて、元気だった。

だから、こんなに早く別れが来るとは、思ってもいなかった。

そして、母の想いをホロスコープの声から、探した1ヶ月。

もしかしたら、大切な人を亡くした人の多くが、星からのメッセージ・・・星の遺言を、必要としてるんじゃないかって思えてきた。

生まれた時のホロスコープが、一生に影響を与えるなら・・・

子供が生まれた時のホロスコープが、人生の大きな変化につながるのなら・・・

きっと、大切な人が最後に残した、旅立ちの日のホロスコープに、意味がないわけはない。

そう思うようになっていった。

そして、山羊座時代から、風の時代に変わろうとする今、その想いが、強くなってきた。

私にとっては、天王星が太陽と重なり、土星・冥王星が月と重なる、大きな変化の時期でもある。

別離や死を経験したことで、人生は変わる。

変化ではなく、変容なんだと思える。

占星家としての死への向き合い方は、星の遺言を届けること。

もし、あなたの大切な人が、旅立ってしまったなら、きっとそこには、たくさんのギフトとなるメッセージが、溢れているはずだ。

 

弟の妻の死を経験して改めて感じたグリーフケアの必要性

星の遺言を届けたいと思った理由①でも触れた、弟のY。

私にとっては、本当の弟と同じだ。

彼は、決して幸せな幼少期を過ごしたとはいえず、家族との縁も薄かった。

私たち家族と、兄弟同然に育ったことからも、推測できるだろう。

その彼が、結婚し家庭を持ち父親となった。

彼にとっては、初めての「家族」という絆だっただろう。

妻とはとても仲が良く、幸せだったことは疑いようがない。

けど、妻を亡くすことで、彼の人生は一変した。

もちろん、長い闘病生活を過ごした彼女は大変だっただろうし、ご兄弟やお母さんの気持ちは、計り知れない。

けど、私が最も心配だったのは、残されたY。

死別の悲しみや苦しみは、話すこと、語ることが効果があるといわれる一方、男性はそれが苦手だ。

私の小さな力では、彼を癒すことはできない。

けど、ほんの1mmでも、何かできることはないのかと、思わずにはいられなかった。

そして、看護師時代に学んだ、グリーフケアをもう一度学び直したいという気持ちになった。

 

死生観〜さらなる探求

死別を経験すると、人生について、それまでとは違った見方をするようになる。

あの人の人生は、どんなものだったのだろうか?

大切な人であればあるほど、その生に意味を見出したくなる。

そして、自分の人生についても、改めて考えることになる。

時には、今までの価値観が崩壊することで、見えてくるものもある。

それが、自身の死生観を作ることになる。

失ってすぐには、そんなことは考えられない。

後悔や罪悪感、そして、さまざまな体調の異変を抱えることになるかもしれない。

しかし、その感情や感覚は、今までの人生の中で、抑圧してきたこと、避けていたことかもしれない。

大切な人は、死という大きな出来事を通して、そのことを伝えてくれる。

もちろん、それはヒントで答えではない。

自分なりの答えを見つけていくことも含めて、どう生きるのかが問われる。

私は、母の死を通して、母の人生がどれほどの苦難や絶望を抱えていたのか、どれほどの喜びを感じていたのかに、思いを馳せた。

それは、自分の価値観が、どれほど母親の影響を受けているのかを、知ることにもつながった。

そして、自身の死を恐れる感情が湧いてきた。

すると、今まで抑圧していた、過去の喪失体験がフラッシュバックのように、芋づる式に襲ってきた。

そこから、死生観を探求することになった。

看護師として若い頃に抱いていた死生観が、おままごとに見えるような感じさえしていた。

けど今は、いろんな知識や沢山の人の体験から、もっとシンプルでいいのかなとも思う。

子供の頃、聞かされたように「人は死んだらお星様になって、いつも見守ってくれてるのよ。」

死ぬことは、お星様になって、広大な宇宙で輝いている。

心からそう思えたら・・・

 

 

 

宇宙からのメッセージは、鳥肌が立つほどに美しい。

旅立ちの時に母が残してくれた、星のメッセージ

ひなちゃんが残してくれた、星のメッセージ