ホロスコープは、私たちの人生を知ってる

生まれた時のホロスコープが、一生に影響を与えるなら・・・

子供が生まれた時のホロスコープが、人生の大きな変化につながるのなら・・・

きっと、大切な人が最後に残した、旅立ちの日のホロスコープに、意味がないわけはない。

そんな気持ちから、星の遺言をお届けしたいと思った。

ホロスコープは、ただの星の配置じゃない。

それは、その瞬間の宇宙のエネルギーが映し出されたもの。

生まれた瞬間の星が人生を導くのなら、旅立つ瞬間の星も、何かを伝えているはず。

この世に生を受けたときの星が、人生のテーマや可能性を示すように、旅立ちの日の星も、何かを遺された人へ語りかけているのかもしれない。

「どうしてこの日に旅立ったのだろう」
「何か意味があるのだろうか」

そんな問いに、ホロスコープは答えをくれるかもしれない。

故人の声を直接聞くことはできなくても、星のエネルギーを通して、その想いを感じることはできる。

だからこそ、「星の遺言」を届けたい。

亡くなった方への想い、後悔、感謝。

それを語る場として、星を読む。

そうすることで、少しでも心が和らぎ、新しい一歩を踏み出せるのなら。

それもまた、旅立った人が遺してくれた、ひとつのギフトなのかもしれない。

 

死に向き合う

死に向き合うのは、大変なことだ。

できれば避けて通りたい。

それでも、いずれ誰もが経験する。

死亡率の高い病棟で長く働いていた。

何度も何度も「死」を見てきた。

悲しいとは思ったけれど、それはどこか他人事だった。

患者が亡くなるたび、家族が泣き崩れる姿を見た。

取り乱す人、静かに涙を流す人、言葉を失う人。

「お気持ち、お察しします」と言いながら、本当のところは、察してなどいなかったのかもしれない。

日常的に死を見ていると、感情が鈍る。

悲しみがないわけじゃない。

でも、それに飲み込まれていたら、仕事にならない。

亡くなった後の処置をしながら、「次の業務」を考えている自分がいた。

モニターの数字がゼロになっても、静かに手を組ませ、身体を拭き、決められた手順通りに動く。

けれど、家族にとっては違う。

データでも、数値でもなく、そこに横たわるのは、ただひとりの、大切な存在だった。

そのことが、本当の意味で腑に落ちたのは、家族を見送る側になったときだった。

呼吸が途切れる一瞬。

何度も見てきたはずなのに、その瞬間が、こんなにも心が痛むものだとは知らなかった。

あのとき、家族が流した涙の意味。

あのとき、家族が叫んだ言葉の意味。

ようやく、それが、自分の内側に染み込んでいった。

 

母を見送って

母を見送ったあと、私は「星の遺言」を届けたいと思うようになった。

母自身、延命を望んでいなかった。

ここ数年、事あるごとに、「何かあった時は、この鞄に全部入っとるし、ちゃんと書いとるけー。」

そう繰り返していた。

「書いとる」――その言葉が、後に私を星の遺言へと導くことになる。

私はシングルマザーだったから、子どもたちのために、毎年一度、自分の想いを書き残していた。

だから、母もきっと何か言葉を残しているはずだと思っていた。

けれど、母が遺したのは、通帳の暗証番号や手続きのメモ、ただ事務的なことばかりだった。

探しても、探しても、母の「想い」は見つからなかった。

だから、空を見上げた。

そして、星を読んだ。

母の旅立ちの瞬間、星は何を描いていたのか。

そこに何か、母のメッセージがあるのではないか。

そうして私は、「星の遺言」を聴くようになった。

 

新しい世界を生きる意味

星の遺言を聴くことは、ただ大切な人がどんなメッセージを残して旅立ったのかを知ることではない。

それは、その人のいない世界を、どう生きていくのか、という問いと向き合うことでもある。

死は、ただの終わりではない。

残された者に、新しい世界を生きる意味を問いかける。

それまでの価値観を揺さぶり、これからの生き方を選び直す機会を与える。

だから、星の遺言を読むことは、喪失の痛みにただ向き合うのではなく、そこから、生きる礎を築くことなのかもしれない。

私のホロスコープには、死の象徴が刻まれている。

それは単に「終わり」を示すものではなく、死と向き合い、死への恐怖や不安を感じながらも、そこから成長していくためのもの。

死とは、生きることの裏側にあるものではなく、生きることと、深くつながっている。

そして私は、星の遺言を通して、多くの人の死生観に触れていくのかもしれない。

死をどう捉えるのか、死とともに、どう生きていくのか。

その問いに向き合うことこそが、星の遺言を聴く本当の意味なのかもしれない。